キリバス タラワの生活・観光情報です

(1)治安
概して問題ないです。少なくとも脅迫犯罪は起きないそうです。まあつまらない窃盗くらいはある様ですが。
一番多い事件は酔った勢いの傷害(けんか)だそうです・・・

  
(2)通貨
豪$(AUD)が使われています。補助通貨だけですが独自通貨もあり混じって利用されています。

 
(3)言語
キリバス語を地元の方は話されますがあくまで地元同士の際に利用されるだけであり、外国人には英語を使って喋ってきます。長く英領でしたので英語は浸透している様です。

 
(4)換金
殆ど期待できなかったと記憶しています。せいぜい豪$TCを豪$現金にするくらいまでがせいぜいだったかと。日本円の換金は可能かどうかはなんとも言えません。はっきりいってちゃんと日本で豪$に換金され渡航されることを強くオススメします。 

(5)カード
OTINTAAI HOTELですらNGだったと思います。今はどうでしょう?

 
(6)電源
AC240Vです。時々停電があると聞きました。
島一番のホテル「OTINTAAI HOTEL」は自家発電装置があり停電はまったくない様です

 
(7)飲み水
OTINTAAI HOTELは独自ろ過装置がありますので別格。そのまま飲めるそうです。
他の場所は雨水を簡単なフィルター通しているだけ、あるいは時間給水の水道(中身は似たようなもの)の利用のはずです。一部井戸もある様ですが、塩分が混じるなどの問題があり飲用には通常適さないはずです
いずれにせよ飲用には煮沸は絶対条件です。

なお当時ミネラルウォーターはなぜか見かけませんでした。ジュースは沢山売っています。ビールも・・・

 
(8)売店・スーパー
いわゆるスーパーといえる様な所はないですね。

こういった売店なんかはやたらにあちこちにあります・・・


島では大きい輸入商社 ABAMA KORO

自転車なんかは輸入商社の倉庫(兼本社!)に直接いって買うそうです。あとここではジュースなんかも箱単位でなら売ってくれます。当然ちいさなショップより安いです。お茶を作りながらも足りない分は飲み水の代替にジュースを飲んでました。


よくみるとファンタオレンジが・・・これ水代わりだったのです。

 
(9)飲食店
他にもちいさな店はいくつもあり10軒近くはいったはずだが、殆ど記憶には残っていない。
資料や記憶に残っているものをここに紹介します。
分類 レストラン名 一言コメント
西洋? OTINTAAI HOTELメインレストラン まあ普通に普通のものが出てきますが・・・ちょいと高いという記憶があります。
正直ホテルのレストランでは1〜2回くらいしか食べなかったと思います。
西洋? MARY's レストラン
ゲストハウスの1階にあるレストラン。レストランとしての方が島内で有名。味は普通に美味しい。

T30RT(左)とその友達とここで食事をした。その際も彼はここは一番美味しいと言っていた。
カレー
チキンカレーを食べている所 カレーは島内でメジャーなメニューである

BETIOではなくOTINTAAI HOTELからそれほど遠くはない所で食べたと記憶している。店の名も正確な位置もいまや記憶の彼方である・・・
カレーの店だったことは覚えている。
KIRIBATIで知り合ったCBやっている友人(TIMON)に食事をしたいんだがどこか近くにレストランないの?と聞くとここを紹介してくれ、レストランまで連れてきてくれた。
 
(10)虫
正直いって木のある様なところに行くと猛烈に蚊がいます。日なたは全然いませんね。
ホテルで過ごす限りは安心ですが、島の住人に招かれて木々の中の家に行ったらもうそれは蚊の猛襲撃にあって大変なことになりました。
虫除けもった方がいいかもしれません。

(11)交通機関
◆バス(乗り合いTAXI的なもの)
道がBETIOをのぞけばほぼ一本道なのでMAJUROと同じ感じです。ただこちらは大きな車(ミニバス)でサービスされている事が多いです。ちなみに右ハンドル左側通行でして、日本の中古車両が日本の文字がついたまま沢山走っています。

よくみると 「岡山チャンキーブロイラー」と書いてあります・・・

乗り方は手を上げるだけ。降りるのは普通は地名なりを言うんでしょうけどよく判らないので適当におりたいところで降ろしてくれーと叫ぶとおろして貰えました。
料金は数十セントだった記憶はありますが細かい事はさして覚えておりません。

飛行場に着いたバス

あと飛行場からBIKENIBEUを通りコーズウェー経由でBETIOという路線と、BETIO内ぐるぐる循環というのとあったと記憶しています。

 
(12)観光スポット
観光スポットというべきではないでしょうが戦跡が多数存在します。とくにBETIOは司令部があり米海兵隊と激突し玉砕しました。この戦跡は1992年訪問時も多くそのままの状態で残っていました。
私の訪問時には戦時中タラワに駐屯しされた方と一緒になりました。ご一緒させて頂き「慰霊碑」や「戦跡」を訪問しました。訪問前までは「マキンタラワ」という名前程度の理解しかなく日本軍が玉砕したという具体的なところまで知らなかったわけで、改めて「マキンタラワの玉砕」や、「なぜ日本軍はここを攻略しようとしたのか?」という地理的・時代的背景を学ぶきっかけとなった場所です。

キリバスに着いたときは「果てしもないところに来たもんだ」と思ってましたが、果てしもないところに日本本土から戦争に来ていたのかという事に今もって驚きを禁じえません。

タラワ環礁のBETIO地区(ベシオ島)に司令部がありここが玉砕したわけですが、当時タラワ環礁のこの周囲に住んでいた島民はアベママ島という島に強制移住させていたそうです。(これ自体問題ではあるが)多くは無事だったそうです。
また比較的日本の統治方法(態度?)が良かったのか、非常に統率が取れていたそうで末端の兵まで態度が良かったと言われています。少なからず不幸な歴史がありながらも反日感情は見られません。

訪問時にロコのレストランで食事をしていた時に島のお年寄りが片言の日本語で話しかけてきて、日本の兵隊と話したことがあると言って懐かしそうに名前を繰返し言っておられたのが記憶に残ります。
キリバス訪問時(1992年)でも約50年前(タラワ玉砕は1943年)です。2005年からみればすでに60年余の時が過ぎています。この時代の記憶はどんどん薄れ、風化しつつありますが、現代にも残る戦跡を見ると改めて太平洋戦争の事を今一度深く考えさせられる。
タラワ環礁はそんな島なのです。

  ◆日本軍司令部跡

BETIOの旧日本軍飛行場跡の脇にあります。
特三根とよばれた第三特別根拠地隊の司令部です。非常に厚いコンクリートの壁で出来ていますが艦砲射撃だと思いますが司令部建物の壁はいくつもの穴があいています。
特に柵などもありませんので近寄る事も可能ですが如何せん古いので注意は必要です。間違っても登らない様に・・・
昭和18年に米国に占拠された際に撮影された写真と寸分変わらぬ状態で残っていました。

  ◆高射砲・砲台のあと
多数あります。最も有名なものはBETIOにあります。ペイントされ観光資源として保存している様です。
ただペイントの色は本来の色ではない気がします・・

BETIOにある最も保存状態のよい砲台
※日本海軍四一式20cm砲(アームストロング式) 四一とは明治四十一年の意味とのこと



コーズウェーに行く途中であったもの。だいぶ保存状態が悪い
※これも上記同様 日本海軍四一式20cm砲(アームストロング式)の模様


私は良くわからないが空港滑走路脇のもので高射砲らしい

  ◆滑走路跡(BETIO)

ここに海軍の飛行機がありました。今はご覧のとおり滑走としては使用していません
書籍によれば755空(陸攻隊)が居て陸攻と零戦が装備されていたとあります。航空機の存在を示すものもしくは残骸などはまったく見受けられません。

  ◆大桟橋
掲載写真にはありませんが、駆逐艦等の船が停泊可能だった大桟橋の残骸が今でも潮が引くとかすかに跡が残っています。
ベシオの浜から潮が引くとうっすらと残骸がみえていました。
最初はなにかと思ったんですがあとから大桟橋のあとだと判りました。
どこかに写真が残っているはずなんですが・・・

  ◆軽戦車?装甲車?
たしかベシオ周辺だと思いますが海の中に朽ち果てた戦車が放置されています。
環礁で浅瀬なので歩いて戦車のところまで近寄れます。

はっきりと残っているので吃驚しました
※九五式軽戦車 本来は日本陸軍開発したもの。
  日本海軍の海戦隊が使用していたものと思われるとのこと

  ◆慰霊碑
戦争犠牲者の慰霊碑が島のあちこちに分散してあります。

《英国》

これは私の記憶では日本がタラワに侵攻した際、僅かな軍勢で守備していた英国軍の慰霊碑だった記憶しています。勿論圧倒的な武力の差で全滅しました
この黒い石の部分に戦死者全員の名前が刻まれています(それくらい少なかったんです)

《米国》

これは米国軍の慰霊碑です。両面で記載が異なります。
写真にみえる面はNAVY(海軍)、反対側はMARINE(海兵隊)です。
この石碑によると1943年11月20日の戦いにより海兵隊(MARINE)は1113名死亡、2290名が負傷、海軍(NAVY)は30名死亡59名負傷という事です。

《日本》

島の在住日本人(一時訪問者含む)皆で慰霊碑の掃除をし、線香をあげました。

緑地帯の様な慰霊専用スペースに日本人のための慰霊碑あります。

中央におられる方はタラワ環礁に展開していた日本軍の生き残りの方です。当時少年兵としてここタラワへ赴任していたそうです。しかし1943年11月の玉砕のほんの数ヶ月前に任期満了となり内地に戻る事になったそうです。当時タラワの米軍侵略は時間の問題で、断腸の思い出島を離れたのだと思います。タラワはその後玉砕し、多くの友人・戦友はみななくなったそうです。

慰霊碑の傍らにある慰霊目的の仏像(※1)。背後は十字架になっている。その脇には高射砲(※2)
※1 サイパンのスーサイドクリフにあるものと同一のデザインとのこと
※2 八八式7糎野戦高射砲 本来陸軍のものですが海軍海戦隊が使ったものであろうとのこと

このタラワ玉砕の中でも運良く生き残った人は本当に数名程度で、文字通り玉砕だったそうです。
50年の節目を迎え「もう一度現地で戦友と会いたい」との思い一心でキリバスに来られたのだそうです。
大事そうに靖国神社でお払いを受けた日本酒を供え、慰霊碑に向かって戦友に話しかけておられました。今まで生きていて見たこともないほどの勢いで泣き崩れた・・・そんな姿をみて、またその後当時の話を伺って、戦争の心の傷の深さや悲惨さ、戦後世代の我々の靖国神社と戦中に生きられた方の靖国神社への思いの違いを改めて感じたものです。戦争に対する理解がだいぶ変わりました。自分としては非常にいい経験をしたと思っています。
色々な問題を抱えている靖国神社ではありますが、戦中生きてこられた方にとって、本当に特別な場所なんだという事が話していてよくわかりました。

後から聞いた話ですが、この方は特別な海外経験もなく(勿論駐屯はしてましたけど)英語もまったく喋れないため、この慰霊訪問の相談を受けた旅行会社(私と同じ場所)は相当困ったそうです。
この方は慰霊目的で在日本キリバス名誉総領事館の栗林総領事に相談し紹介を受けて当該旅行社に相談されており、また目的からみてもなんとかしようと考えたそうです。
ただ経由地となるフィジー(ナンディ)はまだガイドの手配が出来なんとかなりますが目的地キリバス共和国タラワ島は無理です(当然ですが)。そんな時、われわれが前触れも無くヒョコヒョコと「ツバルとキリバスに行きたい」と現れ、これに目をつけもし何かあれば何とか助けてもらえる(だろう)はずと、我々とまったく同じフライト日程・同じホテルにして送り出したんだそうです。

僕らは何も知らされてはいませんでした。いやそういや出発直前にAIRのチケットを取りに行ったときに「キリバスだけですが一緒の行程で日本人の方が1名いかれますよ」と一言だけ言われたことは覚えていました。
帰国後報告を兼ねて遊びに行ったのですが、後からこの話を旅行会社の人から打ち明けられて「あの話はそういう事だったのか」と思い出したものです。
確かにホテルで言葉の通じない局面があったようでそのとき我々が呼ばれたり(といっても我々もそんな流暢ではないけど)して仲介したり、多少はお役に立てたのではないかと思います。

この写真には日本人は沢山写っていますが、当時タラワに駐在していた日本人は海員学校の教師とJICA関係者の数名だったはずです。
非常に吃驚した話なのですが、我々がNADIからTARAWAに飛んだ飛行機には
◆われわれ2名
◆慰霊目的で渡航された方1名
◆ODA関連で日本の建設会社の方1名(半赴任状態の方) 1名
◆笹川財団の南太平洋調査の方 1名
◆笹川財団関係で、現地合気道道場の視察と指導される先生(師範代) 1名
6名も日本人が乗っていました。

飛行場ではこの合気道の師範代と笹川財団を迎えにきた現地邦人が、彼らだけでなく後から後から日本人が出てきて本当に驚いていました。まあ日本人なんて滅多にこないんでね。
さらに第二次世界大戦時にタラワに駐屯していた経験者が居て、しかも慰霊目的で来ていたという話に驚き、結果皆で慰霊碑にお参りに向かおうということになったのでした。(それがこの上の写真です)

  ◆コーズウェー
BETIOとBAIRIKIを結ぶ長さ4キロ程の連絡橋です。
当初豪州が援助し、作る予定でしたが難航につぐ難航の工事で完成出来ず、この工事から豪州は撤退しました。
キリバス政府の要請に答え日本政府はODAによって橋の建設を行うことを決定、大日本土木殿が受注し見事完成させました。橋はその後も問題なく使用されており、日本の評価は大変にあがることになりました。
キーウェスト程の快適性はありませんが、非常に気持ちの良い道路ですので、バスにでものって一度は体験されることをオススメします。

  ◆大日本学校
正確には DAI NIPPON PRIMARY SCHOOL といいます。
場所はコーズウェーの入り口付近にあります。別に大日本帝国とは何ら関係はありません。
実は以前はこの名前ではありませんでしたが、前述コーズウェーの一件があり、大日本土木の活躍を見て、学校側がその名をとって校名の変更をしたそうです。
多少下心があったかないかは知りませんが・・結果として大日本土木から筆記具やノート等の寄付を受けているそうです。

  ◆海員学校
キリバスのエリートが通う学校、それがこの海員養成学校です。
観光スポットでもないんですが我々は教官とお知り合いになれたので表敬訪問させていただくことができました

船の様にみえるのは船の模型。これを使って様々な訓練を行う

1992年当時まだスタートして2年目か3年目で本格的に軌道にのるところだったと記憶しています。
海員養成学校ですが、実際はキリバス周辺もしくは他の海で、日本の鰹一本釣り漁船に乗る船員の養成が主たる目的です。当時日本人の船員は集まらず、どうやって漁を維持するかが問題となっており、一方漁場はあっても自国で漁を行い輸出する力はなく、漁業権を売っていたキリバス共和国が、キリバス人を養成する事により、漁の場所だけでなく人員も供給しようとした、日キ共同のプロジェクトです。

まず入学するのが数倍の確率で大変難しいそうです。
学校は全寮制で、時間を守ることや規則を守ることが厳しく指導され、社会生活を重視した指導が行われます。何回か連続して規則違反をすると放校となるほど厳しい指導を行っているそうです。
一部脱落者は出る様ですがみな一生懸命頑張って卒業を目指すそうです。
人気がある原因は、卒業後日本の鰹一本釣り漁船に就職がほぼ確実なことです。就職した暁には日本円にして10数万の給与が保証されます。これはキリバス国内では破格の条件で、キリバスのエリートはすべてここに集まるとさえ言われています。

授業は、規律を重んじるといった生活態度のみならず、鰹一本釣りの基本的な技術の習得、海の生活で必要な海洋技術全般、仕事で必要な日本語会話なども指導されます。

私が行った当時は、鰹一本釣りの世界では大変に有名な名漁労長の方が指導に来られていました。日本鰹マグロ協会?だかの推薦で、業界の期待を一心に受け技術を教えるため船を降りてキリバスに赴任されたと仰っていました。私がお尋ねした時はまだ赴任されたばかりで「日常生活の言葉も苦労しているんだ」と仰ってました。
その後「NHK特集」でキリバスでの漁業研修生への教育を行っている名漁猟長について取材されたドキュメンタリーが放映されました。番組の中で放映された数ヶ月前に後身の方と交代し帰国された事を知りました。
キリバスの色々な映像をみて大変懐かしかったのを記憶しています。


ちなみに訪問時は歌の歓迎を受けました。3曲歌ってくれました。我々も返礼で3曲歌わないといけないとのことでした。「東京音頭」やらTUBEの「ビーチタイム」やらを歌った記憶があります・・・

 
(13)お土産
素朴な島なので特別なにもないですが、島の人に私はパンダナスで編んだマットを貰いました。とても素朴でよいんですが、だからとって使う場所もないので・・・いまだに押入れに寝ています。
あと島オリジナルのタバコがあります。なにかの葉に包んだもので相当強いんだそうです。私はタバコは吸わないんで判りませんが愛煙家の方が仰っていました。あまり美味しくはないそうです。
ただ普通のタバコは高いので安いロコ製のタバコも根強く残っているんだそうです。

本ページの日本軍装備に関する情報(主に注記してある内容)についてはSampon様に情報協力頂きました。
このページを借りまして御礼申し上げます


2005年3月8日作成
2006年2月4日一部追補